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 人の死は謎である。それが老いや病いによる自然死でない場合にはなおさらだ。光が甘美でありうるのはそこに闇があるからだが、闇に充たされた生き物にとりほんとうの光はおそらく、直視に堪えない。それゆえ生は死とともにあり、死は生の一部だということをふだん忘れずにいることは難しく、一つの死の向こう側に新たな生の扉が開けるとしても、それを望まず、憶病にふるまう自由を人はもつ。

 奥能登という稀有の、稀有であるがゆえにありふれたローカルを差異の記号に落とし込まず、といってドキュメンタルにその固有性へと依存させることもなく、ただ淡々と己の表現世界に取り込んでゆく是枝裕和の手つきには少し不気味なほどに底知れないものがある。小津へのオマージュとしても、ショットやプロット構成にもまして、この不気味さこそが何より効いている。

 この人ひとりの死と生という一回性のフレームを、遠目には音もなく進行してゆく瓦解と再生の一つとしてみる眼差しが貫徹されたとき、そこを往き交う静謐と激情の振り幅はきっとありうる最大値を目指してゆく。その手つきの、ひんやりとした肌触りのもつ、透き通るような凄みがここにある。


幻の光”(Maboroshi) by 是枝裕和 / 江角マキコ, 内藤剛志, 浅野忠信, 木内みどり, 赤井英和, 柄本明 / 110min / 日本 / 1995
1995年ヴェネチア国際映画祭オゼッラ・ドゥオロ賞 ☆☆☆☆☆

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