2035年、新型のロボットの普及が始まる。すでにロボットは人々の生活に不可欠のものとなっていたが、この最新鋭のロボットには重大な欠陥があった。開発者の博士は謎の事故死を遂げ、ウィル・スミス扮する主人公の刑事は事件を探るなかでロボットたちの異変に気づく。

 アイザック・アシモフの古典的SF小説を下地におくこの作品は、そのプロットの大枠に目新しい要素は取り立てて何もない。ロボットが自らのプログラムにあらかじめ組み込まれた‘人間を襲ってはならない’等の禁則を破る筋立ても、その背後に単体のロボットたちを統べる人工頭脳の存在が明らかになっていく構図も、すでに見飽きたものの域を出ない。
 絵的なディティールにしても、この新型ロボットのフォルムはどうみても Chris Cunningham の Bjork PV や“Ghost in the Shell”の亜流だし、都市やインテリアの作り込みにもたとえば“マイノリティ・リポート”のようなこだわりはみられない。

 それゆえこれらをもってこの作品を駄作と断ずるのはたやすいが、個人的にはそうした評価は少しポイントがズレているように思う。最近は東京にもシネマ・コンプレックスがずいぶん増えたが、海外の、とくにアジアの大都市で映画がどのように観られているかに実地に触れれば、このことの理由はわかる。すなわち市場があぶり出す最大多数の観客にとって映画はすでに、ウーファーをも使用した多層的な音響効果や、リラックゼーションシートといったサービスの行き届いた環境のなかで楽しむイリュージョン装置に他ならず、映画作品本体の質は‘趣味’の選択を左右する最終的なソフトの微細な差異としてしか機能しない。そこではプロットの精神性、先進性よりはむしろ、体感的享楽性、ステロタイプなカタルシスへの導きの有無こそが問われる。とかく大都市の情報メディアインフラにおいて日本や欧米は既存の体制が強固な分、新興の国々に多くの面で先頭を譲っている。映画の配給体制はそのささやかな例の一つだが、個人の作家性よりマーケテット・リサーチが重視されるハリウッド映画ならではの未来像がそこには茫洋として浮かぶ。
 そして‘体感的享楽性’についていえば、この作品は完全CGによる、人型だが人ではないゆえに可能となるロボットの超絶的アクションは観る目に極めて快い。‘カタルシス’についていえば、ウインクすることの意味や人間の感情という不可解なプログラムを必死に学び、会得していくロボットの姿、トラウマを抱え奔走する刑事の姿に涙する人はきっと大いに涙する。その意味でこの作品は無難な水準を行っている。悪かない。

 極私的には、刑事に寄り添う女性研究者が彼と恋愛関係に落ちるよう描かれなかったのはやはり、彼女が白人でウィル・スミスが黒人だからなのだろうということ、プログラムゆえのこととはいえ博士を殺してしまったロボットと刑事とがラストで友情を確かめ合ってしまうことの禁忌のなさ、等が気になった。女性研究者を演じたブリジット・モイナハンは“リクルート”に続きいい感じに仕上がってきており、今後が楽しみ。


"I, Robot" by Alex Proyas / Will Smith, Bridget Moynahan / 110min / USA / 2004 ☆☆