ironman グダニスクの造船所で起こったストライキを主舞台とする社会派映画。1980年のポーランドで起きた社会運動“連帯”を、造船所で働く一人の青年と、彼の動向を追う一人のベテラン報道記者の視線を通して生々しく描く。青年は68年の学生運動で挫折し、同じく造船所で働き運動家として労働者を束ねた父親を70年の紛争で亡くしている。68年には父の理解を得られず、70年には父を支持しなかった。そのことが彼を一層の激しさへと駆り立ててゆく。他方、本作品においては語り部の役割を担う中年のベテラン報道記者は、スパイ行為を要求する当局と自らの報道者としての責務、生活者としての使命感との間で葛藤し、苦悩する。

 アンジェイ・ワイダの映画というと硬派の政治性ばかりがイメージされがちだけれど、実際に観ると矛盾の権化ともいえる人間という生き物に対してとても甘い視線を持っていることがよく伝わってくる。“鉄の男”でいえば、葛藤の場に置かれてアル中の症状やしたたる脂汗といった醜態を晒しながらも己を通そうとする中年記者や、主人公の青年と行動を共にし、やがて妻となる女性のシークエンスなどにそれがよく出ている。この女性の描かれ方、潔く芯の強い、だが脆い部分も抱えつつ青年への愛を貫こうとする姿もまた政治的に企図されたものと考えるのは邪推だろう。抜きんでて情操豊かたればこそ映画制作の道を選んだが、政治状況の中で己の姿勢を厳しく問われたゆえに政治的であらざるをえず、そのことが叙情に逃げこまず、ドキュメンタリーでは物足りないという彼の制作意識を育んだのだと考えて初めて了解できるほどにこのバランスは類稀な水準で達成されている。

 余談。この作品において何よりも度肝を抜かれたのは、本物のワレサ元大統領がとても気さくな風で登場し、主人公と抱擁を交わしていたことだ。事前に知らなかったのではじめはそっくりさんかと思ったが、壇上で大衆の注目を浴びるシーンでそうではないとわかった。あの鷹揚で深みのある風格は本人にしか出しようがない。また1981年のカンヌ国際映画祭でこの作品はパルムドールを獲得したが、これは映画としての質本位での受賞とは思われない。近年では2004年の“華氏911”、2002年の“戦場のピアニスト”などがそうであったように、ここではカンヌ特有の汎ヨーロッパ主義的とでもいうべき政治性が働いたと見るのが妥当だろう。


"Czlowiek Z Zelaza" (Man of Iron) by Andrzej Wajda / Jerzy Radziwilowicz, Krystyna Janda, Marian Opania / 152min / Poland / 1981  1981年カンヌ国際映画祭パルムドール ☆☆

 8人の女による密室劇。こじんまりとした作品を、大物女優たちと気鋭の監督が楽しんで作ったという感じ。
 タイトルロールには8種の花が順繰りに大写しにされていき、それぞれの花一つ一つの映像に出演する女優の名前が一人ずつ付されていく。個々の花は個々の登場人物の性格や色合いを象徴し、そのようなタイトルロールの演出は全体としてこれから始まる本編のデコラティヴな風合いを予感させる。
 
 確信犯的に意図されたケレン味とも言えるだろう、その相当にキッチュなゴージャス感は、フーダニットっぽいミステリアス仕立てのプロットから作りもの感の甚だしいセットに小道具、過剰に差異化された衣装、パロディやオマージュに満ちた女優の仕草や踊りの振付といったあらゆる要素に貫一され、徹底されている。
 全体的にこの作品は、1950年代の仏・米映画へのオマージュを下地に置くが、それは女優個人の容貌や演技からにじみ出てくる“女の美しさ”が、使用された撮影編集技術や資本力に優先して映画の質を左右した最後の時代ともいえる。それだけに、カトリーヌ・ドヌーヴとファニー・アルダンによる対決シーンには可笑しさの向こうにほのかな哀切をも感じてしまう。個人的にはエマニュエル・ベアールがやはり一押し。ルドワイヤンのヴァイタリティーも彼女の前ではまだまだ薄い。

 いずれ劣らぬ大女優たちとはいえ、他の女優の歌うシーンでカトリーヌ・ドヌーヴにバックダンサーを演じさせる一例によっても、この映画のコミカルなゴージャス感が伝わるだろうか。気分が沈んでいるときに観たためか、そのノリを素直に楽しめなかったのが残念。大切な人と一緒に観てください。


8 Femmes”(8 Women) by Francois Ozon / Catherine Deneuve, Isabelle Huppert, Emmanuelle Beart, Fanny Ardant, Virginie Ledoyen, Danielle Darrieux, Ludivine Sagnier, Firmine Richard / 103min / France / 2002 ☆☆ 2002年ベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞:出演8名に対して)
ordo ロランス・フェレイラ=バルボサという女性監督の作品は、まったくの初見。出演者名の列のなかに、マリー・ジョゼ・クローズ(Marie-Josée Croze)の文字を見つけた点が決定打となり、足を運んだ。
 ストーリーは、主人公である30代半ばの海軍下士官オルドが、若い頃に数ヶ月間だけ結婚していたことのある年下の女が映画スターになっていることを知り会いに行くが、実際に目の前にした女とかつての結婚相手との間に感じる距離を受け入れることが出来ず、種々の葛藤を重ねたのちにいくらかの和解を経るも結局は、彼女の元を去るという展開。オルドの所属が潜水艦であることは、後半で彼女の潜在意識に迫っていくことと呼応している。

 「アメリカのミステリー作家による同名小説を脚色し、サスペンスというジャンル物への挑戦」したというパンフ解説や、「現代の都会に生きる女性たちを繊細に描いて」きたらしい監督の来歴を併せて考えれば、このストーリーで監督が表現したかったことは容易に察しがつくとも言えるが、それにしてもこの作品で軸となる“映画スター”の抱える内面世界の貧困はあまりに空想的というか、少々漫画的ですらある。ここで問題なのは、底無しの孤独を表現するために‘鉄面皮の裏に隠された熊のぬいぐるみ’のようなモチーフを臆面もなく連続的に持ち出すあたりで、どうも首を傾げざるをえない。潜水艦のメタファーにしても、少々ベタベタすぎる気がする。
 漫画的であることが即悪いことであるなどと言うつもりは毛頭ないけれど、漫画的な役柄を生の役者に演じさせるとき否みがたく備わってしまういびつさを回避しえていないことに由来するのだろうこのどこかズレた感覚は、初期の候孝賢作品にも似たところがある。新進気鋭の斬新さと未生未熟のぎこちなさが、窮屈そうに同居を強いられている感じ。

 マリー・ジョゼ・クローズは、何だかもう一つ鳴かず飛ばずのうちに老け込んでしまったという観が強い。健全そのものの太めの体は以前のままだが、重要で花のある役柄にもかかわらず、“MAELSTROM(渦)”[2000]などで見せた輝きには遠く及ばない。“みなさん、さようなら”[2003]ではジャンキー娘、“CODE46”[2002]では砂漠の浮浪者のちょい役を演じていたように思うが、見間違いかもしれない。希望的にはもう少し、脚光を浴びても良い人であるように思うのだけれど。
 冒頭で主人公オルドの職場として映される潜水艦内の澱んだ雰囲気や、再三登場するプール水面の透明感のある照り返しなどが印象に残る。“女優役”の周囲を彩る、それぞれに愉快で奇々怪々だが品もある登場人物たちの役柄も良い。なかでも召使のベトナム人を演じた役者は光っていた。


“Ordo” by Laurence Ferreira-Barbosa / Marie-Josée Croze / France / 2004 東京日仏会館 エスパス・イマージュ 2005/1/23・29上映 [過去blogより移行] ☆

 貧しく暗澹たるトレーラーハウス生活を余儀なくされている少女を主人公とした、失意と再生の物語。彼女は仕事探しもはかどらず、母親はアル中ですぐに男を引き込む廃人生活を送っている。けれども他人の施しはどうしても受けたくないとの気丈さから、ふとしたことからできた友人を裏切ってまで路上でのワッフル売りの仕事にありつくのだが……。

 作品は全編 Dogme95 を彷彿とさせる制作手法で撮られている([条文日本語訳はこちら])。ハンディ・カムによるカメリングも抑制が利いており、フォントリアー作品や“ブレア・ウィッチ”のような手法自体に対するあざとさよりは、冒険的な誠実さを強く感じた。とりわけ映画中盤の、遊びをまったく知らずに生きてきた主人公が誘われて仕方なく始めるぎこちないダンスのシーンは良い。10分近い長回しもずばらしく効いている。
 他人の施しを受けないことを気丈さと冒頭に表現したが、実はここで発揮される頑なさは男と寝ることで施しを受けようとする母親への忌避感を根においており、果ては公的な生活保護をもはね除けてしまう強迫神経症的な身振りへとつながってゆく。主人公は作品中で幾度も下腹部を痛がるのだが、この自らの体をも御しきれないやるせなさが、他者との関わりにおけるフラストレーションをことさらにいや増していく。こうしたあたりに生活水準を問わない現代社会全般の精神病理をも潜ませた監督の手腕はなかなかだとおもう。

 主演のエミリー・デュケンヌもやたらにいい。主人公の抱えるありとあらゆる焦燥、葛藤、苦悩、孤独を全身に充たし、張りつめ、表現へと押し出していく。とくに最後のさいご幕切れの一瞬に見せる‘融解’の表情は、もうこれだけでカンヌの主演女優賞を決めたのだろうと思わせるほどに素晴らしい。疲弊と失意のどん底にあって自らの過ちにより損なった友人からの赦しの視線に触れ、心の内で抱えてきたものすべてがわれ知らず変容していくさまを、一瞬戸惑うかのような、そして次の瞬間には解放の予感に満たされていくかのようなとても微細な表情の変化を以て表現しえていた。演技力の問題というより、そのような演技を導きだす、映画制作の手法全面における達成とも言えるラストの一幕。
 あどけない女の子の顔をピンボケぎみに大写りさせたパッケージと作品タイトルから、この映画を癒し系かわいい系ヒューマンドラマだと誤解してレンタルする人はきっと多いはず。ぜんぜんちがう、そうじゃない。


Rosetta” by Jean-Pierre Dardenne, Luc Dardenne [+scr] / Emilie Dequenne (Rosetta), Fabrizio Rongione (Riquet), Anne Yernaux (Mother), Olivier Gourmet (Boss) / 95min / Belgium + France / 1999
1999年カンヌ国際映画祭パルムドール + 主演女優賞 ☆☆☆

 ニューヨーク抽象表現主義をリードした画家ジャクソン・ポロックの生涯を描いた伝記映画。監督・主演・脚本を務めたエド・ハリスのこの映画にかけた執念の濃度が凄まじい。
 ドリッピング技法を完璧ともいえる水準で自らマスターしていることや、各種の時代考証、作品考証の徹底ぶりといった表層的なことから、ふとした折に見せる表情・演技に現れる確かな役作りの根拠、配役やプロットの細部にひそむ透徹した一貫性といった作品全編におよぶ構成のあらゆる要素の一つ一つに、映画制作に関わった人たちの矜持が感じられる。

 1940-60年代の抽象表現主義黄金期のニューヨークの大手ギャラリーの様子なども楽しめる。背景に映り込む作品群は基本的にすべて模作だが、カルダーなど本物を借り出している部分もあるようだ。映画美術に携わる風景画家たちの手になるという大量のポロックのドリッピング作品のレプリカ(作品数で200はあった)は、見慣れた人間にはポロック本人のものではないとすぐに判断できるものがほとんどだが、それぞれに味があり興味深い。なかでも1950年11月28日のBetty Parsons Galleryでの個展のシーンで大写しになる“ラベンダー・ミスト”の模作は抜群の水準を行っていた。

 この時期の欧米現代美術の大パトロンとしてつとに著名なペギー・グッケンハイム役に実生活ではエド・ハリスの妻であるエミー・マディガン、ポロックの最期の現場に居合わせた若い愛人役にショーン・コネリーの娘ジェニファー・コネリー、ポロックの友人で良きライバルでもあったデ・クーニング役に“トップガン”,“ヒート”などのヴァル・キルマーなど、脇役もそれぞれに特徴があり良かった。作品中には他に、ポロックをスターダムに押し上げたのみならず抽象表現主義の潮流自体の大立役者でもある批評家クレメント・グリンバーグや、一つ下の世代の気鋭の批評家ハロルド・ローゼンバーグなども登場する。彼らのセリフは概ね実際の発言/記述に即しており、その意味でもとても楽しめた。
 死に赴かんとするキワの心情を仰向する一瞬に表現したエド・ハリスのラストは、彼の足跡を越えて想起され続けるべき壮絶さを孕んでいる。


"Pollock" by Ed Harris [+scr] / Ed Harris, Marcia Gay Harden, Amy Madigan, Jennifer Connelly, Jeffrey Tambor, Val Kilmer / 122min / USA / 2000 ☆☆☆
 久々に南アジア圏の映画を観た。牛車に乗った二人の男がふとしたことで見知らぬ男の遺体を運ぶはめになり、行く先々で埋葬を拒否される。この映画の話の筋は概ねこれだけだ。
 映画のパンフにはブニュエル的不条理劇との類縁性、などとも書き付けられている。もちろんこのような衒学的な言い方も悪くはないが、もう少しくだけて、ヴェンダース流ロードムーヴィの趣きに不条理劇的要素を加え、ベンガルの田園風景に載せてみました、と言ったとしても、この作品の本質を捉えた言葉からはほど遠い。何かに引き付けて語るなら、むしろ持ち出すべきはタゴールの詩であろう。不条理劇の線で観るなら、ラストシーンの慟哭で意識に上るのは、前近代性の醸す野暮ったさばかりということになってしまう。それではあまり、鑑賞法として豊かでない。

 もっともこうした非営利の会場で資料的な価値も込みで上映される作品の場合、それが芸術作品であれ娯楽作品であれ金と人数をかけてよく作り込まれた映画に馴れたこの目には、どのような見方を採ろうともいささか冗長に映ってしまうケースは少なくない。
 今回などはまさにそれで、こういうときは同行の友人がしていたように舟を漕ぎ出すのも良い手だが、こういうときだからこそ沸き起こる想念の行方に身を任せる良い機会でもあるわけで、スクリーンに映る風景や植物や、人々の衣服や道具、録音に混じった様々な音のかけらに注意を向けているうちに、気がつけばこのベンガルの土地を旅していた頃を思い起こしていた。

 インドの西ベンガル州を併せるとこの土地には都合三度滞在しているにも関わらず、映画を観ていてベンガル語の響きがずいぶんと縁遠いものに聞こえてくる。この土地の、とりわけ農村に住む人はみな、ほんとうに詩的な眼差しと身振りをその底に湛えていた。それなりにこなれていたはずのフレーズのいくつかも、すでに忘れてしまった自分を少し、寂しく感じる。


"車輪" (The Wheel) by Morshedul Islam / 65min / Bangladesh / 1993 東京国立近代美術館フィルムセンター 2004/5/15/・6/16上映 [過去blogより移行] ☆
neko1 生後約2ヶ月、この家に来て10日ほどたった頃の写真。体重は約650グラム。はじめの頃はとにかく驚きの連続だった。

 驚いたことその一。床に自分の影が映ること。この家はいわゆるフローリングというやつで、ニスを塗った合板の床を基本としているのだけれども、そこに降り立つとなんと何者かがつねに足下にいるではないか。はじめの2,3日は飛んだり跳ねたりして、あくなきたたかいを床と続けた。それがどうやら実在の何かではなく、世間では影という現象であることを知って慣れるのに、一週間ほどかかった。いまは気にしない。ときどき小突くくらいである。

 その二。初めて思いっきり走ったこと。それまではペットショップの檻の中にずっといたから、どうも要領を得ない。ぴょこんぴょこんとしゃくとり虫のような進み具合になり、そのたびに見ている人間がカワイイという。うるさい。
 
 その三。よくわからないものたち。目にするあらゆるものが初めてで、よくわからない。カーテンってのはその最たる例で、まずもってどこが急所なのかわからないから、たたかいようがない。半月ほどたたかって、しばし休戦することにした。休戦してみると、なかなか良い奴だとわかってきた。何より隠れるのにいい。爪研ぎにもそこそこ使える。人に見つかると怒られるので、見ていない時をねらって研ぐのが大切だ。
 本の山にとびのると、雪崩が起きることがある。これも楽しい。また今度。
suspiria  この色、この光。今までに観たことがない。映画全編に渡って退いては寄せるように響き続けるシンプルなつくりのテーマ曲も、結局最後まで飽きることがなかった。遅ればせながら、やや甚大な衝撃を受けてしまった。
 ダリオ・アルジェントという名に“ホラー映画の原点”のようなイメージだけを持って今まで食わず嫌いできたのだけれど、根本的に違っていた。というのもあたしが持ってきたホラー映画のイメージというのはどうやら“サスペリア”よりも後発の“死霊のはらわた”、“ジェイソン”といったハリウッドの作品群により植え付けられたものだったらしい。 “サスペリア”は世界志向(十分なマーケットリサーチ/シンプルな構成/アメリカ人女優の適用etc.)の制作背景をもつとはいえ、イタリアンフィルムの匂いがとても強かった。

 魔女の存在が重要なモティーフとして選択されている点も興味深い。少しネットを捜したら、なんと舞台となった舞踊学校のモデルはシュタイナー・シューレであったらしい。[当該HPはこちら ] ルドルフ・シュタイナーの思想活動は確かにある種の保守的な人々にとってこのように怪しくも映るのだろう。もっともな話である。
 魔女狩りは集団における強迫神経症的な徴候として語られる一方で、欧州と欧州から輸出された北米でしか見られない現象という。(by中井久夫 『徴候・記憶・外傷』 ) それだけにこれらの国の人にとってこのモティーフの使用は、魂の底からの恐怖心を呼び起こす力があるわけで、理にかなった選択とは言えそうだ。

 恐いのはきらいだ。“死霊のはらわた”も“ジェイソン”も一人で観たことはまったくない。にもかかわらずこういう内容だと知らずに今回“サスペリア”に手を出したのは、やはり精神的に参ってるせいなんだろう。あまり沈み込んでいるときに観て良い効果があるとも思えない。けれど引かれてしまう。どうしようもなく。自虐的なのではない、陥っているこの苦しさが何なのか、少しでも納得したい。閉じた社会のうちにこもり稼いだ金を生活に費やして、ただいるだけでは、つらすぎる。


"Suspiria " by Dario Argento / Jessica Harper, Joan Bennett, Stefania Casini, Alida Valli / Goblin [music] / 99min / Italy / 1977 ☆☆☆☆

devilsdoorstep

 中国・華北の寒村。1945年旧正月前のある深夜、主人公夫婦の家に大きな麻袋が二つ、謎の男により持ち込まれる。袋の中には日本兵とその通訳が。
 夫役の姜文(チアン・ウェン)。張芸謀(チャン・イーモウ)監督の“紅いコーリャン”同様、これしかないという質実でどこか間の抜けた役柄を見事に演じ切っている。日本兵役の香川照之、妻役の姜鴻波のほか、後半に登場する日本軍部隊長役の澤田謙也の好演も光った。


 モノクロの粗い仕上がりがまた非常に良い。たとえば夜な夜な開かれる村人たちの合議のシーンや、クライマックスの村人たちと日本軍兵士たちが催す宴のシーンに登場する焔とその照り返しの表現などに、単なるレトロ色を狙ったのではない、カラーには出来ない表現を追い求めた跡がしっかりと窺える。

 登場する村の寂れた家屋と湖の凪いだ様子が少し信じられないくらいに哀愁を漂わせる。古い街区をゼロから再現したらしい。姜文は監督としての力量も“太陽の少年”ですでに確認済みだからとても大きな期待をもって観たけれど、総じてその期待値をも大幅に上回る出来だった。(詳細は[公式HP ]にて)


 これほどに完成度が高く、思想的にも政治的にもうまいバランシングを達成し、カンヌグランプリという海外からの充分な評価をも獲得した作品が、中国国内では未だに公開禁止だという。ここらへん、俄然不思議の国である。



鬼子來了 ” [鬼が来た! / Devils on the Doorstep] by 姜文 / 姜文 JIANG WEN, 香川照之, 姜鴻波 JIANG HONG-BO, 袁丁 YUEN DING, 澤田謙也 / 140min [original vers.:162min] / 中国 / 2000
2000年カンヌ国際映画祭グランプリ ☆☆☆☆

 息子を水難事故で失った家族の話。カウンセラーとして働く彼の淡々とした静かな生活のなかに、息子をなくした哀切や後悔の念が深く忍び入り、妻や娘との穏和な関係にも少しずつゆがみが入り込む。そうした生活のつづくなかで、ある日息子へのラブレターが届く。夏のキャンプで出会ったという差し出し人の女の子は息子の死をまだ知らない。


 ラストシーンのさりげなさが素晴らしい。ラブレターを書いた女の子の訪問をきっかけとして、残された家族の三人がある“踏み越え”を行う。それはどこまでも精神的なもので、映像にはそこで行われていることの激しさが表現されることはまったくない。その踏み越えは言葉はもとより、表情にすらほとんど反映されることなく、ただ心の奥底で進行し、遂行される。ラストのさりげなさが、そのことのすべてを表している。
 静かな傑作。語られることなく派手な演出もなしに達成されたほんものの表現の、核のようなものがそこにある。


 いい音を使ってるなと思い確認したら、音楽にブライアン・イーノが参加していた。久々にまとめて聴きたくなった。



息子の部屋 ”("La Stanza Del Figlio") by Nanni Moretti / Nanni Moretti, Laura Morante, Jasmine Trinca, Giuseppe Sanfelice / Brian Eno [Music] / 99 min / Italy / 2001 2001年カンヌ国際映画祭パルムドール ☆☆☆☆☆