maboroshi1.JPG

 人の死は謎である。それが老いや病いによる自然死でない場合にはなおさらだ。光が甘美でありうるのはそこに闇があるからだが、闇に充たされた生き物にとりほんとうの光はおそらく、直視に堪えない。それゆえ生は死とともにあり、死は生の一部だということをふだん忘れずにいることは難しく、一つの死の向こう側に新たな生の扉が開けるとしても、それを望まず、憶病にふるまう自由を人はもつ。

 奥能登という稀有の、稀有であるがゆえにありふれたローカルを差異の記号に落とし込まず、といってドキュメンタルにその固有性へと依存させることもなく、ただ淡々と己の表現世界に取り込んでゆく是枝裕和の手つきには少し不気味なほどに底知れないものがある。小津へのオマージュとしても、ショットやプロット構成にもまして、この不気味さこそが何より効いている。

 この人ひとりの死と生という一回性のフレームを、遠目には音もなく進行してゆく瓦解と再生の一つとしてみる眼差しが貫徹されたとき、そこを往き交う静謐と激情の振り幅はきっとありうる最大値を目指してゆく。その手つきの、ひんやりとした肌触りのもつ、透き通るような凄みがここにある。


幻の光”(Maboroshi) by 是枝裕和 / 江角マキコ, 内藤剛志, 浅野忠信, 木内みどり, 赤井英和, 柄本明 / 110min / 日本 / 1995
1995年ヴェネチア国際映画祭オゼッラ・ドゥオロ賞 ☆☆☆☆☆

maboroshi3.JPG
littlebirds0 ヴィデオジャーナリストの綿井健陽は、バグダット市内へ侵攻してくる米軍の戦車を映し出しつつ、この作品の冒頭でこう呟く。「なんということだ」 彼は“日本人”という、もはや敵国人となった属性を引きずることで幾度となく罵声と蔑視を浴びながら、それでもイラクの人々の側に立ち、ひたすらにカメラを回し続けていく。
 3歳と5歳と7歳の子供を失った父親は、自宅に隠し持つAK47を構えてこう言い放つ。「この銃は、いつかアメリカ兵を撃ち抜くためにある」
 
 もしそこに大量の油田が存在していなかったら、アメリカはそれでも“解放のため”イラクへ侵攻していたろうか。もし中央アジアからパキスタンへ抜けるパイプラインが通す計画がなかったら、アフガニスタンの大地を放射能で汚す真似をしたろうか。理不尽な襲撃により自分にとってかけがえのない人を奪われた男のいくらかは確実に、残りの人生をただ復讐のためにのみ費やすことになるだろう。それが正常な人間の反応だ。愛し愛された人を殺されてなお、仕方のない犠牲だった、よくやってくれたと拍手を送る人間などいるものか。
 映画“Little Birds”は、そのようにして己を憎む敵を自ら生んでいくことで利益を得る人間たちが好き放題に世界最強の軍隊を操ってあることの悲劇を、その悲劇を実際に背負う羽目に陥った人々の側に立って映し出した類稀な作品だ。爆発による破片を片眼に深く埋め込んだまま、カメラに向かってはにかむ少女(画像右上)。片手を失った息子を傍らに、代わってやりたいと泣き叫ぶ母親。敵国人である綿井に殴りかからんばかりで迫る激昂した若い医師を無言で取り抑える、自らもまた家族や知人のいくらかが死傷しているに違いない周囲の大人たち。これらのシークエンスには、記号化され平準化されたニュース映像からは決して伝わってくることのない種の真実が宿っている。

 戦争に苛まれるイラクの人々の表情は、メディアを通じてもう嫌というほど接してきたし、そこに一筋縄ではいかない矛盾がどれだけ潜んでいるのかということも、なんとなくそれで誰もが知った気分になっている。巷間にはそうした雰囲気が確かにある。ほんとうのところ自らが日々働いて納めている税金が、他国の国債やら思いやり予算やらを通じて“同盟国”への軍事支援に役立って、どれだけの無実の人々の命を奪い、笑顔をなくすことに費やされているのかということを、この国の大人たちのほとんどは心のどこかで知っている。“自己責任”とは、都合の悪いことに対しては目をつむってあることだ、ということすらもすでに社会的なコンセンサスをとっている。
 なんとすばらしく平和な国の、いと心地よき映画館の座席に身を沈め、私たちはこうして素朴に涙することだってできてしまう。この国に生まれ育ちこの最低に幸福な生活を享受できる運の良さを、いったい私たちはいつまで安住し噛みしめていられるだろうか。


"Little Birds" by 綿井健陽 [+撮影] / 安岡卓治 [製作/編集] / 102min / 日本 / 2005 K's cinema ☆☆☆

 久々にベニチオ・デル・トロが観たくなり、“ハンテッド”を借りて観る。ジャンルで言うと逃亡&追跡モノで、追いかけ役がトミー・リー・ジョーンズだから“逃亡者”[1993]とか“追跡者”[1998]とかの括りになると思う。けれども逃げ役がハリソン・フォードとかでなく、ベニチオ・デル・トロになっているあたり、企画側の手詰まり感が出ていて良い。
 デル・トロはかなり好きな俳優の一人だ。何より寡黙な演技がいい。スパニッシュ系で、ハリウッドメジャーに出てきた当初は単に英語が上手くなかったからというのもあるはずだが、最近ではその押し黙りキャラがすっかり定着した味になっている。トミー・リー・ジョーンズも最近は背中で魅せる渋さを醸し出すようになったおかげで、この作品での二人の格闘シーンは専ら無言で行われる。これが良かった。というかセリフが出ると、急にトーンが落ちる。頼むからダマッて戦え、と観てる最中、幾度か思った。

 アクション主体のこの作品で最も印象的だったのは、両主人公の身体的特殊技能を極地での銃を使用しない近接戦による暗殺法としている点で、映画の佳境ではなんと、手近の材料から原始的な石器づくりや鍛金工法で武器となるナイフを作り出していた。最新の銃器や近未来的な装備を伴う格闘シーンなど、観客はとうに見飽きている。CG技術の発展により予算規模と製作サイドの想像力の巧拙のみが問われるようになった現状では、むしろこのような肉体=自然への回帰はニッチをいく魅せ方として利くだろう。
 だがそれ以上にこの演出が興味深いのは、いざ原始的な肉弾戦に回帰した追跡劇、格闘戦を映像化した時、そこではおのずと都市/自然の二項対立的な認識がまるで意味をなくすということだ。生きるために動く、食べる、そして殺す。周囲の環境の差異など、これらの動作にはおよそ無意味な要素となってくる。この作品中ではとりわけ大都会のど真ん中で行われた追跡シーンにおいて、追う者/逃げる者の双方の目線や四肢の先をカメラが逐一追いかけることにより、環境すべてをサバイバルに利用可能なモノとして平準化する視座を獲得しえていた。撮影監督はキャレブ・デシャネル。彼は“パッション”[2004]でも同傾向のショットを試みている。
 監督のウィリアム・フリードキンという名は初見だけれど、この一点のみを以っても十分に評価に値すると思う。というか検索してみたら、なんと“フレンチ・コネクション”[1971]や“エクソシスト”[1973]の監督だった。“エクソシスト”、やはり一見に値するかも。う~ん……ん、恐いの不安。


"Hunted" by William Friedkin / Benicio Del Toro, Tommy Lee Jones / Caleb Deschanel [cinematographer] / 94min / USA / 2003 ☆
monstersball0.jpg 静かで良い映画。同じ‘静けさ’でも、何も起きずに終わる平穏な作品よりも、この映画のように周囲に親しい人の死を孕み傷つきながらもタガを外すことなくラストに至る作品の方が、その静謐の度合いに凄みが出る。だから良い、という単純な話にはならないけれど、どちらかといえばこういう作品があたしは好きだ、とは言える。
 人種差別志向の強いある白人の元看守(by ビリー・ボブ・ソーントン)が息子の悲劇に打ちのめされ、やがて死刑囚人の妻だった若い黒人女性(by ハル・ベリー)に惹かれていく。二人は荒々しく体を重ねるようになるが、女は相手が夫の死刑を執行した人間だと知らない、というストーリー展開。

 ハル・ベリーという女優はおそらく初見。かなりいい。こういうオーラを発するような新人は久々だなと思ってネットで少し検索してみたら、アクションやキッズ物を中心に、メジャー系のハリウッド映画にもけっこう出ていた。これだけの表現力があるのだから白人でさえあれば、とも考えてしまうがなかなかどうして、有色人種の溌剌美人系がのし上がるにはこれしかないというキャリアを重ねてきたようで、この作品でアカデミー主演女優賞、めでたいかぎり。むろん白人以外の女優としては初めてだろう。アカデミーで誰がどんな賞を獲ったかなんてこと映画の質本位にみればまず無意味だけれども、彼女が獲ったことは2001年末の米社会的には多分意味があったはず。

 また“チョコレート”という邦題もとても良い。英語がかなりの普及している今日でも、原題をそのままカタカナにすると別のニュアンスを持ってしまう場合にはやはり、こういうところで配給会社のセンスが問われてくる。語自体の文字通り甘い印象もさることながら、原題の"Monster's Ball"(怪物の舞踏会)が作品の文脈的に持っている不気味さも、本編中で女の連れ子が見せるチョコレートへの異様な執着によりうまく引き継ぎえていると思う。もちろん肌の色への艶やかな見立ての意図もあるだろう。ただこの作品の日本公開時には、ほぼ同時期に公開されたジュリエット・ビノッシュ&ジョニー・デップ主演作“ショコラ”とのあいだに若干の混乱を生んだのではないかとも思うけど、それはそれであとのお祭り。
 スイス出身の新鋭マーク・フォースター監督は、ピーター・パンを劇中劇におく次作“ネバーランド”[2004]で、何の因果かそのジョニー・デップと組んでいる。今年3月にアテネの劇場で観たが、こちらも‘静かな’良作だった。


"Monster's Ball" by Marc Forster / Billy Bob Thornton, Halle Berry, Heath Ledger / 111min / USA / 2001
2002年ベルリン国際映画祭銀熊賞(女優賞) ☆☆

 米大統領選などでのこの人のメディアへの過剰な露出ぶりはよく目にしていたし、こういう人がこういう文脈で活躍できるのはアメリカ文化の美点の一つでもあるのだろうが、こうした形で社会問題が消費されてしまう危うさもそこにはきっとある、というような見方をしていたからこそなのだろう。昨年のマイケル・ムーアのカンヌ最高賞受賞には驚いた。
 それで遅ればせながら実際に観て考えた。作品に力はある。コロンバインでの銃乱射事件、近隣地区での幼児による射殺事件といった個別の事象から、銃器製造会社から軍需産業へと話を集約、展開させていき、その背景にある人種差別、貧困、福祉といった社会問題に切り込んでいくプロット構成は見事だし、編集も巧み、社会的弱者の立場に視点を定めた非常に訴求力のある作品に仕上がっている。

 この時代のこの国だからこそ、こうした作品がしっかりと撮られ評価されることの意義は大きい。だが、作品の質本位でよりつぶさに観てゆくならどうだろう。少なくとも、表現ジャンルとして成立している‘ドキュメンタリーフィルム’として考えたとき、“ボーリング・フォー・コロンバイン”が達成している水準は相対的にみて決して抜群とは言えない、とあたしは思う。
 前にドキュメンタリー映像作家の森達也が全国紙に載せていたマイケル・ムーア批判はこれだったのかと、いまDVDを観終えて初めて納得できたものがある。たとえば個人的にこれまで幾度か足を向けてきたドキュメンタリー映画祭の東京での上映会に、仮にこの作品が出品されていたらどうかと想像してみる。決してベストの評価を集めるもののようには思えない。構成、演出、メッセージの迫真性、いずれの要素においても他から際立って見事だとも巧いとも感じないだろうと思う。衝撃度はむしろ小さい。

 とはいえ兵器工場への取材やマリリン・マンソンへのインタヴューなど絵になる箇所を多く散りばめ、銃乱射事件の社会的背景を探っていくサスペンス調の筋立てや個別の事象から一気に問題の核心へと突き抜けていくエンターテイメント的な手際の良さには感心した。とりわけ全米ライフル協会会長チャールトン・ヘストンの豪邸に押しかけるシークエンスは、取材の時間帯が及ぼす背景効果や交わす言葉の間合いなどの選択などがとてもよく計算されており、この作品のクライマックスに相応しい仕上がりとなっている。
 ちなみに彼がカンヌでパルムドール(カンヌ映画祭における最高賞)を獲得したのは2004年公開の次作“華氏911”においてだが、実はこの作品“ボーリング・~”もパルムドールこそ逃したものの2002年のカンヌにきちんとノミネートされており、とってつけたような55周年記念特別賞なるものに輝いている。2004年の受賞時は審査委員長を務めたタランティーノの嗜好がやたらに喧伝されもしたが、予兆はすでにこのとき、あったのだ。


"Bowling For Columbine" by Michael Moore [+scr] / Michael Moore, Charlton Heston, Matt Stone, Marilyn Manson [participant] / George W. Bush [archival appearance] / 123min / USA / 2002 [過去blogより移行]
2002年カンヌ国際映画祭55周年記念特別賞 ☆☆
jvsg コンフェデ杯日本-ギリシア戦を観る。サッカーを一試合全て観ること自体が久々で楽しめた。試合運びも悪くなかった。結果は1-0で日本。
 昨年のユーロ杯でのギリシア優勝も影響したのか、ギリシア本国でのサッカー熱には凄まじいものがある。今年3月のギリシア旅行中はちょうどチャンピオンズリーグ開催の時期にあたったのだけど、島でも街でも夜になると酒場やレストランはこぞって試合中継を売り物にしていた。
 日本のように若年層への人気ばかりが目立つのではなく、とりわけおやじの熱中ぶりがすごかった。おやじどもが街の食堂で、自分の国の代表チームならともかく、とくに自国の選手がいるわけでもないチェルシーやバルセロナのプレーに気炎を上げる様など、日本ではちょっと想像もできない。

 ギリシア男の第一の出稼ぎ先は、今も昔もドイツである。それゆえドイツで開催され、ギリシア代表にとっては予選突破の最後の望みがかかる対日本戦は、本国でもきっとかなり注目されていたことだろう。この時期にギリシアにいてレストランに入っていたら、それはそれで何かあったかもしれない。
 11人中8人が身長180cm超というギリシア代表はヴィジュアル的にもいかにも地中海の男たちといった感じで頼もしかった。この敗戦にめげず今後もがんばってほしい。女としては、人間の男もこれくらいなら悪くない。

 ところで一夜あけてついさきほどBSでW杯予選のブラジル-パラグアイ戦をやっていたので少し観る。ブラジル代表、それはもう、すんごかった。「100メートル10秒切りそうなヒデ」や「身長190cm超の小野」みたいの‘しか’いない。コンフェデ杯予選で日本と同組のブラジルはメキシコに負けたので、日本同様つぎの日本-ブラジル戦に準決勝進出がかかってくる。空恐ろしい。2点差に抑えたら勝ち、程度のハンデがあってもいいかもしんない、にゃぅ。

 バックパックを片手に友人宅を渡り歩き、根無し草の生活を続ける21歳の娘イザ(by エロディ・ブシェーズ)が、ひょんなことから出会ったもう一人の主人公で同い年のマリー(by ナターシャ・レニエ)の元へ転がり込む。マリーの暮らす家の持ち主は家族ぐるみで事故に遭い、植物状態に陥った少女だけが残されている。

 奔放でいつも元気な可愛らしいイザと、引っ込み思案で美人のマリー、どこまでも対照的な二人の生活を、アニエス・ゴダールのカメラが丁寧に、ときに手持ちカメラで感情のささやかなどよめきをも追いかけるかのように映し出していく。根が内向的で自分からは新しい世界に挑むことのなかったマリーがイザとの出会いにより触発され人生に対し前のめりになってゆくも、遊び人で裕福な若者クリスの毒牙にかかり身を持ち崩していく過程はよく理解できるものであるだけに痛々しい。自由に生きることが己に対しても責任を伴うものであることに自覚的なイザはマリーを諫めるが、マリーはもはや聞く耳を持とうとせず、彼女本人にとってはもうこれしかないという陰惨な結末へとひた走ってゆく。

 いまは植物状態にある少女がかつて付けていた日記帳をみつけたイザは、治療室の彼女の元へ幾度となく通いだす。物語の進行に影響を受けることなく眠り続ける少女というモチーフは、横たわる彼女の寝姿が逆に物語全体へと深い余韻を与えていくという点で、アドモルバルの“トーク・トゥ・ハー”や村上春樹の“アフター・ダーク”を想い起させる。そのいずれもが、眠り続ける少女の容態の変化によって物語のラストを象徴的に描いているという点でも通底するものがある。眠る無意識の存在を背景に置くことで覚醒した意識のゆらぎを対象化してみせる手法にはある種神話的な趣きすら感じるが、その実もっとも見開いた瞳こそがもっとも盲目的でありうる今日にあっては、それこそが事象を眼差す真に現代的な所作たりうるのかもしれない。


"La vie rêvée des anges" (The Dreamlife of Angels) by Erick Zonca / Élodie Bouchez, Natacha Régnier, Grégoire Colin / Agnes Godard [Cinematographer] / 113min / France / 1998
1998年カンヌ国際映画祭最優秀主演女優賞W受賞 ☆☆

 ある国際空港で一切の出入国が不許可となった人物を主人公に据えた作品と聞けば、映画好きの人間の多くは即座にロシュフォール主演の“パリ空港の人々”[1993]を思い出すことだろう。映画“ターミナル”も案の定、同作品のリメイクだった。しかも元作品にはないヒロインを登場させて恋愛シーンをつくり(スッチー役 by キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)、悪役も用意して対決シーンに持ち込むという(取り締り官 by スタンリー・トゥッチ)、徹頭徹尾ハリウッド的落とし込みを加えている。これをスピルバーグの詐術とみるか、クリエイティヴィティの枯渇とみるかはおそらく意見の割れるところだと思う。

 ともあれトム・ハンクスの演技はいつも通りの水準に達していて、これだけで充分楽しめたとは言える。様々な人物や出来事との遭遇をへて、空港を出るか否かという主人公の決断が物語の行方を左右してゆくプロットの構成は大枠で“パリ空港の人々”を引き継いではいるものの、キャスティングの相違が両作品の質の違いを決定的なものとしている。すなわち“パリ空港の人々”では、このようなビルドゥングスロマンの一典型を青年ではなくロシュフォールという、老年で二枚目でありつつもとぼけた風情のある俳優が演じるところに玄妙なエスプリが生じていたのだが、これがトム・ハンクスになるともう彼以外ではありえないような異様さを孕んでくる。食べ物を獲得し、建築施工の腕を発揮してゆくくだりなどにとりわけ顕著だが、その極太なヴァイタリティー放恣の様は成長譚というよりは、もはや“フォレスト・ガンプ”[1994]や“キャスト・アウェイ”[2000]で彼が見せたような冒険譚に近い。

 ちなみに本作品および“パリ空港の人々”でモデルとなった実在の人物は“元”イラク人で自称アルフレッド・マーハンと名乗り(元の本名は別にあった)、現在も17年目の滞在をシャルル・ド・ゴール空港で続けているらしい。彼を難民とみるのは高等遊民とみるのと同程度に無理を感じるが、いずれにしてもこの特異さには孤高の色合いを感じてならない。
(↓こちらのBBCドキュメント動画にマーハン本人が特集されています)
http://news.bbc.co.uk/olmedia/cta/events99/millennium/diaries/airport.ram


"The Terminal" by Steven Spielberg / Tom Hanks, Catherine Zeta-Jones, Stanley Tucci / 129min / USA / 2004 ☆

 1942年、ナチス占領下のパリが舞台。ナチスのプロパガンダを担っていたドイツ資本の映画制作会社コンティナンタルに助監督として勤めるジャン=ドヴェーヴル(byジャック・ガンブラン)と、同社の誘いを拒んで放蕩生活を続ける脚本家ジャン・オーランシュ(byドゥニ・ポダリデス)の、二人のジャンが主人公となる。映画は実在のジャン=ドヴェーヴル本人の手記に基づいており、概ね全編が実話に基づいている。

 タイトルの“レセ・パセ(Laissez-Passer)”は一般名詞で「通行許可証」の意を一義とするが、主人公らが行き交う街の路上のシーンで大道芸人の若い女が歌うシャンソン“時の過ぎゆくままに(原題:Laissez Passer)”の歌詞中には、幾度も同文字同音の動詞形'laissez passer(放任する,通す)'が登場する。言うならば、‘川の流れるように’である。
 主人公の一人ジャン=ドヴェーヴルは、独資本の会社から供与された通行許可証を利用して対独レジスタンス活動を支援するのだが、半ば‘なりゆき’で対独協力者ともとられかねない境遇に身を置くことになる顛末や、ちょっと自転車で自宅を出たつもりがそのままイギリスに飛行機で連れて行かれ落下傘で帰還する羽目になるエピソードなどに、この作品タイトルのもつ重層性が効いてくる。もう一人の主人公ジャン・オーランシュは、原稿や資料の詰まったトランクを抱えて幾人もの女の部屋を‘なりゆき’で渡り歩くことになる。決して二枚目とはいえないこちらのジャンの純情さに由来する奮闘ぶりは自然と笑いを誘うが、気弱で失敗続きでいながらも己の書く姿勢を頑なに守り抜く姿もまた、よくみれば同質の純情さに貫かれている。

 ナチスの影響下にあるコンティナンタル社は、必ずしもプロパガンダ映画のみを撮ることを強制しなかった。それゆえ今日からみてもこの時期の良質なフランス映画の多くは同社により制作されており、作品中にも“悪魔の手”や“セシルは死んだ”などの実在映画の撮影シーンがとても綿密に再現されている。監督のタヴェルニエがこうした撮影シーンの演出に執着を見せた理由の一つには、ジャン=ドヴェーヴルのように戦後に名を残した映画人だけでなく、ナチスに手を貸したと非難されがちだった多くの無名の映画人たちの汚名払拭の意図があったのではないか。というのもこの作品では誰ひとり、コンティナンタル社の経営者グレフェン(byクリスチャン・ベルケル)ですらも、決してただの“悪役”としては描かれていないのだ。
 ジャン・オーランシュを取り巻く女たちを演じる女優陣の競演も見応え充分。作品後半、ジャン=ドヴェーヴルは幾度も数百キロの道のりを自転車で走り通すことになるのだが、これらのシークエンスで映し出される田園風景の美は時々刻々とその姿を変容させてほんとうに圧倒される。秀作。


"Laissez-Passer" (Safe Conduct) by Bertrand Tavernier [+scr] / Jacques Gamblin, Denis Podalydes, Marie Desgranges, Marie Gillain, Christian Berkel / Jean Cosmos [Scr] / Jean Devaivre [Book Author] / Antoine Duhamel [music] / 170min / France, Germany, Spain / 2002 2002年ベルリン国際映画祭銀熊賞(男優賞,音楽賞) ☆☆☆

 無名の神父が木の十字架に磔にされて河に流され、そのままイグアスの瀑布に呑み込まれていくシーンから始まるこの作品は、18世紀半ばの南米奥地、パラナ川上流域(現ブラジル-アルゼンチン国境域)を舞台とする。大航海時代のさなかにあってそこではスペインとポルトガルが奴隷貿易の利権を競い、イエズス会が布教の根を張っている。
 映画前半では対立する主人公の二人、誠実に布教を行う神父ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)と冷酷に原住民を刈る奴隷商人メンドーサ(ロバート・デ・ニーロ)は、後半になると教会と政府の意向に抗い手を結ぶ。この作品において語り部となるイエズス会本部から派遣されてきた枢機卿(レイ・マカナリー)は、政治的な決定においては本国の事情を優先して原住民の幸福と平安を切る形をとったが、原住民に寄り添おうとする主人公たちを心情的には理解する。

 この作品の公開年にあたる86年といえばようやくポスト・コロニアル思想が広く喧伝され始めた頃ゆえに仕方ないとも言えるのだろうが、植民地政治や奴隷制度への義憤は描かれても、イエズス会の布教行為そのものに対してはまるで無批判な点はどうにも不自然に映る。ともあれ改宗し定住した部族により築かれた社会が一時的にとはいえ共産制に行き着いたとして描かれる点や、宣教師の存在が結局は原住民の破滅を防げなかったとするプロットにより、ぎりぎりのラインでPC的な誹りを逃れているとは言えるのかも。デ・ニーロ扮するメンドーサが一度捨てた武器を手にとる決意ののち祝福を請うシーンでの、J・アイアンズ演じる神父ガブリエルによるセリフ「私が祝福を施さずとも、あなたの行ないが正しいなら神が祝福するだろう。また行ないが過ちなら、私が祝福しても無意味である。ただ私はおもう。もし力が正しいなら、この世に愛は要らなくなる」 は印象に深く残る。

 出演者では他に、いまやすかっりハリウッド・スターの仲間入りを果たしたリーアム・ニーソンが若い神父役で登場している。監督のローランド・ジョフィは他に“キリング・フィールド”(1984)や“シティ・オブ・ジョイ”(1992)、“スカーレット・レター”(1995)など。近現代史物に強いらしい。脚本のロバート・ボルトは“アラビアのロレンス”でも脚本を担当、確かに原住民の扱いには通底する部分も感じる。エンニオ・モリコーネによる音楽もいい。
 念のため付記するが、"mission"の語には「使命,任務」の他に「宣教,伝道」の意味がある。日本を含む非欧米諸国のカトリック教会では "missionaries church" という英語表記をよく目にする。つまり宣教会。


"The Mission" by Roland Joffe / Robert Bolt [scr] / David Puttnam [pro] / Robert De Niro, Jeremy Irons, Ray McAnally, Liam Neeson, Aidan Quinn / Ennio Morricone [music] / 125min / UK / 1986
1986年カンヌ国際映画祭パルムドール ☆☆☆